初代「ドンキーコング」の筐体がアーケードに登場してから36年、マリオのゲームは5億本以上売れ、ゲーム業界では屈指の知名度を誇るフランチャイズだ。マリオは特に2Dや3Dアクションゲームで知られているが、カートにも乗ればスポーツも万能で、RPGから格闘ゲームまで、数多くのジャンルを踏破している男だ。
10月27日、マリオの最新作「スーパーマリオ オデッセイ」はNintendo Switchに登場する。これを記念して、マリオの長い歴史を振り返り、特に印象的だった「30の転機」をピックアップした。これを前編、中編、後編に分けてお送りしていくので、「オデッセイ」を待ちながらご一読いただけると嬉しい。
1.ポパイでもジャンプマンでもミスター・ビデオでもない、あの髭男
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「もっと売れるゲームをつくってくれ」
1981年、任天堂に入社して4年目の宮本茂は山内溥社長に難題を吹っかけられた。任天堂はすでに「シェリフ」といったアーケードゲームを展開していたが、ナムコの「パックマン」ほどの成功を納められていなかった。
宮本が考案したのはハシゴを伝って上を目指していくという構図のゲームだった。当時、任天堂はアメリカのアニメーション「ポパイ」のライセンシーだったので、主人公はポパイにしようと決めた。上からブルートがタルを投げて邪魔すれば「できそうなのについ失敗してしまうゲーム」になるはずだった。プレイヤーを悔しい気持ちにさせ、何度もやりなおしたくなるゲームができるのではないかと宮本は思ったという。
コンセプトはよかったものの、途中から「ポパイ」でいくことが不可能になった。そうくると、代わりとなるキャラクターを作らなければならない。当時は限られたドットでキャラクターを表現しなければならなかったので、宮本はキャラクターに髭を生やし帽子を被らせることで口や髪を描かなくてもいいようにし、さらに走るときに腕を振るのがわかりやすいように、白い手袋を装着させた。後にマリオとなるこのキャラクターのデザインはすべて、機能面を意識した極めて実用的なものだった。日本版の「ドンキーコング」で名前はなかったが、海外版ではジャンプが得意であることから「ジャンプマン」となっていた。宮本はこのキャラクターを自分のすべてのゲームに登場させたいと考え、「ミスター・ビデオ」という堂々とした新しい名前をつけようとした。ところが、米任天堂からは「マリオ」というアイディアが上がり、最終的には後者が選ばれた。
「『ミスター・ビデオ』じゃとっくに消えています」と宮本は「社長が訊く『Newスーパーマリオブラザーズ Wii」で笑って話している。
2.早くも任天堂の看板キャラクターにのし上がる
1983年の「ドンキーコングJR.」でマリオはドンキーコングを檻に捕らえる悪役となり、その後は「マリオブラザーズ」で再びヒーローとなった。このゲームは協力プレイに対応し、マリオの双子であるルイージが初めて登場した作品だ。1984年の「テニス」では審判を務め、同年に発売した「ピンボール」でもボーナスステージに姿を見せた。1983年に稼働した「パンチアウト!!」のアーケード版でライバルのドンキーコングと共に観客に混ざっていたが、ファミコン版ではレフェリーにまでなった。宮本はヒッチコックが自分の映画に必ず出演するように、このときからマリオを任天堂のすべての作品にカメオ出演させようとしていたことがわかる。そして、そうやってマリオは早くも任天堂の看板キャラクターにのしあがった。
3. 「スーパーマリオブラザーズ」3部作が一世を風靡