【プロの添削】よいアニメレビューを書くには? ~藤津亮太のアニメ文章道場~(アニメ!アニメ!)

出典元:アニメ!アニメ!

「アニメのレビューを書きたい!でもどうすれば感動がうまく伝わる記事が書けるんだろう?」そんな方のために、前回の記事ではアニメ評論家・藤津亮太さんにアニメレビューの書き方について詳しくお話を伺いました。

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前回記事では作品の魅力を”圧縮”する方法や、自分が作品のどこに感動したのかを見つけるポイント、冒頭や文の最後に書くべきことなどを教えていただきました。

今回は前回読者のみなさまよりご応募いただいたアニメレビュー記事を藤津さんに全て読んでいただき、全体的な傾向や改善ポイントについてコメントをいただきましたのでそれをお伝えします。

さらに、記事後半では実際にご応募いただいた作品の中から『プロメア』『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』『君の名は。』を取り扱った3本のアニメレビューと、それを藤津さんがブラシュアップした原稿を併せてご紹介。何に気を付けてどのように書けばより読みやすく伝わる文章になるのか、プロのテクニックをぜひご覧ください!

[取材・文=いしじまえいわ] [藤津 亮太(ふじつ・りょうた)] 1968年生まれ。静岡県出身。アニメ評論家。主な著書に『「アニメ評論家」宣言』、『チャンネルはいつもアニメ ゼロ年代アニメ時評』、『声優語 ~アニメに命を吹き込むプロフェッショナル~ 』、『プロフェッショナル13人が語る わたしの声優道』がある。最新著書は『ぼくらがアニメを見る理由 2010年代アニメ時評』。各種カルチャーセンターでアニメの講座を担当するほか、毎月第一金曜に「アニメの門チャンネル」で生配信を行っている。
■全体の傾向と対策「意識すべきなのは、何を書かないか」
――前回記事で募集した「藤津亮太のアニメ文章道場」ですが、読者のみなさんの書いたアニメレビュー原稿が30作品も集まりました。まずは総評をお願いします。

藤津:まず、30もの原稿をご応募いただけたことがありがたいですね。

――そうですね。編集部も正直驚きの数でした。中身についてはいかがでしたか?

藤津:印象的だったのは、どの原稿にも書きたいテーマがちゃんと明確に書かれていたことです。アニメレビューが30個も集まれば、中には「この原稿では何が言いたいんだろう?」というものもあるものですが、みなさんの応募原稿にはそういったものがありませんでした。

一方惜しいなと思ったのは、書くべきことと書かなくていいことを区別し、書かなくていいことは省いた方がもっと読みやすいだろうな、と思う原稿が多かったことです。設定したテーマはどれも面白いのですが、そのテーマをアニメレビューの目的に従って絞り込めているか? という点については結構差がありました。

――アニメレビューを書く目的ですか。それは「読んだ人にその作品を見たいと思ってもらうこと」でしょうか?

藤津:それもあります。人によって原稿を通じて自己表現をしたいとか小ネタを紹介したいとか様々な意図があると思うのですが、アニメレビューである以上一番大事なことは、その文章を読む人に「この作品はこんな特徴・注目点がある作品なんだよ!」というプレゼンテーションを成功させることです。「読者を説得する」といってもいいかもしれません。その結果、紹介されたアニメを「見たい!」と思ってくれたらいいな、と。

――実際に見てくれたら言うこと無しですね。

藤津:そうですね。それを一番の目的と考えると、作品の概要やあらすじなどは余程尖ったコンセプトの原稿でない限りは盛り込む必要があります。

また、あらすじ紹介だけで読んだ人に「見たい!」と思わせられることは稀ですので、筆者なりの切り口や発見を打ち出して読者に印象付けることで「へえ、そういう作品なんだ」と関心を持ってもらうことも必要になります。少なくともこの二点は必ず盛り込むべきです。

長い文章であれば副次的な要素も加えて徐々にグルーヴを上げていくといった書き方もできます。ですが今回の募集要項では2000文字以内という決まりでしたので、筆者の設定したテーマの純度を可能な限り上げ「この作品は〇〇だ!」という風にキーワード化して読者に印象付けるように書くのが最善手かなと思います。

――純度を上げるというのは、前回の記事で「作品内容を圧縮する」と説明されていたことと同じようなことでしょうか?

藤津:近い意味なのですが、少しニュアンスが違うのは、純度を上げるということは不要なものを取り除くという意味合いが強い点です。

――たしかに、不必要な文章が含まれた状態で圧縮しても純度は上がりませんもんね。

藤津:そうですね。だからこそ、何を書くべきで何を省くべきかの取捨選択が重要なんです。

■作品添削その1:『プロメア』レビュー記事
――それでは早速、ご応募いただいたアニメレビューと藤津さんによる添削の過程をご覧いただきたいと思います。最初の原稿は曙ミネさんによるアニメ『プロメア』のレビュー記事「なぜクレイ・フォーサイトの左腕は再生しないのか?」です。まずはご応募いただいた原文をご覧ください。

※『プロメア』:『天元突破グレンラガン』『キルラキル』の今石広洋之監督と中島かずき脚本タッグによるTRIGGER制作の2019年劇場用作品。炎を操る人類マッドバーニッシュのリーダー・リオとそれに対峙する高機動救命消防隊バーニングレスキューの新人隊員・ガロの衝突をハイスピードかつシンボリックな映像で描いた。

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タイトル「なぜクレイ・フォーサイトの左腕は再生しないのか?」

自治共和国プロメポリスの司政官クレイ・フォーサイトが、自分が身体を再生できる<バーニッシュ>であるにも関わらず、失った左腕を再生しないのは、彼が自分が<バーニッシュ>であることを認めたくないからだ。

本作のなかに登場する<バーニッシュ>とは、30年前に全世界の半分を焼き尽くした大火災の引き金となった突然変異体たちのことだ。
そのなかで、今でも攻撃的なテロ活動を行う集団は<マッドバーニッシュ>と呼ばれている。
そして、そのテロリスト集団が引き起こす火災を鎮火するために活動しているのが、主人公ガロ・ティモスの所属する、高機動救命消防隊<バーニングレスキュー>だ。

物語は序盤、その対立の構図からスタートするのだが、ほどなくして<バーニングレスキュー>を組織しているクレイ・フォーサイトらプロメポリスの上層部が、実は<バーニッシュ>たちを捕まえて、人体実験を繰り返していたことが判明する。
また、テロ活動を行うとされていた<マッドバーニッシュ>たちは、クレイたちに捕まった同族を救出するために活動していたことが明らかになる。
その事実を知ったガロ・ティモスが、両者の争いとクレイたちの計画を止めるために活躍するというのが本作のストーリーだ。

だが物語の終盤で、これまで<バーニッシュ>を弾圧してきたクレイ・フォーサイト自身が、実は自分も<バーニッシュ>であるということが明らかにされる。
最終決戦において、クレイが昔、主人公のガロを助けたときに無くしたとされる左腕の義手から<バーニッシュ>であることの証明、バーニッシュフレアが燃え盛るのだ。

しかし、ここに矛盾が現れる。
<バーニッシュ>たちは、自分たちの身体は生きている間、何度でも再生できるはずだ。
これは、ガロが隔離施設から脱出してきた<マッドバーニッシュ>の首領であるリオ・フォーティアからそう説明されている。
また実際に、ガロがリオを人工呼吸で助ける場面では、ボロボロになり失われていたリオの身体は再生するのだ。
それではなぜ、クレイは自分の左腕を再生しないのだろうか?

クレイの左腕が無くなったのは、彼がまだ学生だったころ、<バーニッシュ>として初めて発作を起こしたときである。
クレイが町を歩いていると、左腕から突如としてバーニッシュフレアが噴き出し、クレイの腕ごと少年の頃のガロの家を燃やしてしまうのだ。
だがこのとき、<バーニッシュ>であるクレイは、自分の左腕を再生できたはずである。それなのにクレイは、自分の左腕を無くしたままにしておいた。
仮にもし、左腕を失いながらも、少年ガロを助けたという美談にしたかったとしても、義手を後から本物に取り換えることなど、司政官の彼ならいくらでもできたはずである。
だが、クレイは自分の左腕を義手のままにし、左腕として再生しなかった。

その理由は、左腕を再生してしまうと、自分が<バーニッシュ>であるということが客観的に証明されてしまうからである。
再生せずに義手のままでいることで、クレイは自分が<バーニッシュ>ではなく、子どもを助けた英雄としていられたのだ。
つまり、クレイは自分が<バーニッシュ>であることが、受け入れられなかったのである。

また、クレイはこの義手である左腕で、真相を知っても自分の考えに同意しないガロを殴り、計画を推し進めるため脅すかのようにエリスの肩に左手を置く。どちらも自分が<バーニッシュ>であることを否定しなければならない場面では、左腕がクローズアップされているのである。
つまり自分が<バーニッシュ>なのに、それを認めたくないというクレイの矛盾した気持ちがこの左腕に象徴されているのだ。

かくしてクレイは、学生の頃からバーニッシュフレアを鎮火する技術を研究し、地球のコアが<バーニッシュ>の力の源であるプロメアの巣であることを知ると、<バーニッシュ>に人体実験を行い、地球から脱出しようと試みる。

作品のなかで、<バーニッシュ>という人種は、自分からあふれ出る炎を燃やしたくてしかたがなく、それを我慢するのは耐え難いことだとされている。
だから、クレイが自分が<バーニッシュ>であることがばれてしまった後であっても、それを抑え込める自分は、他の<バーニッシュ>たちとは違うとあくまで主張する。
そして、義手からあふれ出るバーニッシュフレアで、ガロやリオたちと最終決戦を行うのだが、このシーンで彼の矛盾が最高潮に達している。

物語は最後に、この世界すべてのバーニッシュフレアが燃え尽きて幕を閉じる。
クレイは、もはや自分のアイデンティティーにもなっていた左腕を、永遠に失ってしまう。
だから最後に一言、「余計なことを」とクレイは言うのだが、彼は自分の左腕を失うことで、ようやく自分自身の矛盾から解放されて、ただの人間に戻れたのである。
こうしてみると、この作品はクレイ・フォーサイトという一人の男が、自分の左腕を本当に失うまでの物語とみることができる。
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――着眼がとても面白いレビューだと思いますが、藤津さんの所感はいかがでしたか?

藤津:そうですね。クレイの左腕の意義について言い切っている点が素晴らしいと思います。これは大発見ですね。

だからこそ「失った左腕を再生しないのは、彼が自分が<バーニッシュ>であることを認めたくないからだ。」と冒頭で結論を言い切ってしまっているのはあまりに勿体ないです。言い切りは大事なのですが、結論そのものを最初に出してしまうと「こんなに長く書く必要ある?」と思われかねません。

――読者は冒頭で満足して離脱してしまうかもしれませんね。

藤津:また、あらすじの説明がやや長く、読んでいるうちに冒頭で掲げたテーマの印象を弱めてしまいかねません。ですので、可能な限りクレイにフォーカスしてあらすじをコンパクトにまとめるべきです。クレイがテーマなので、主人公であるガロやリオの説明さえ最小限に留めていいと思います。

――ではさっそく藤津さんの添削内容を段落ごとに見てみましょう。なお、最後にはまとめて添削原稿を紹介します。

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 『プロメア』の終盤、自治共和国プロメポリスの司政官クレイ・フォーサイトが、「バーニッシュ」であったという驚きの事実が発覚する。バーニッシュは、突如発火能力などの特殊能力を持つようになった人々のこと。彼らは欠損した自らの身体を再生することもできる。だがクレイのかつて失われた左腕は義手のままだ。どうしてなのか。
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藤津:元の原稿の言い切りで始まる書き出しは大変魅力的だったのですが、あまりに端的に原稿の結論を言い過ぎているかな、と思いました。作品を見た人だと「あっ(察し)」となって原稿の先を興味を持って読んでくれないかもしれないかなと。
そこで、疑問を投げかけるだけにとどめました。その過程でバーニッシュの説明が必要なので、最小限の説明だけここに入れました。

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バーニッシュは30年前の出現以来、人間と対立を続けてきた。現在はその大半は人類と共存しているが、一部の過激なグループはマッドバーニッシュと呼ばれ、テロを繰り返している。主人公ガロ・ティモスは高機動救命消防隊バーニングレスキューの一員として、マッドバーニッシュの起こす火災を鎮火するために活動していた。
街を燃やすマッドバーニッシュと、それを止めるバーニングレスキュー。ところが、この構図が物語の中盤で崩される。マッドバーニッシュのリーダー、リオ・フォーティアは、囚われて人体実験の材料として扱われている仲間を救うためにテロを繰り返していたのだ。そしてその人体実験を主導している人物こそ司政官のクレイだった。真実を知ったガロは、リオとともにクレイの計画を止めようとする。リオとガロクレイに対峙したその時、その左腕の義手から炎が吹き出す。クレイがバーニッシュであることが明かされた瞬間だ。
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藤津:元の原稿ではこのあらすじをおいかける部分が長かったので、必要なものだけ説明してなるべくコンパクトにしました。ここは基本的にあらすじの解説ブロックですが、冒頭の対立構図が中盤で崩れることを強調し、最後にクレイがバーニッシュであることがわかるシーンを入れて本題に戻る感じにしました。

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クレイが左腕を失ったのは、彼がまだ学生だったころ。クレイが町を歩いていると、左腕から突如として炎が噴き出したのだ。この炎は、クレイの腕を焼き、ガロ少年の家を燃やしてしまう、この時、偶然にもクレイはガロ少年を助けた格好になり、左腕を失いながらも、子供を助けたという美談で市民から称賛されることになる。
彼はバーニッシュなのだから、この左腕を再生できたはずである。仮に義手をつけていることが市民に知られているとしても、彼の権力なら誰にも知られずに本物の腕に変えておくことだってできたはずだ。それでも彼は左腕を再生しなかった。
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藤津:原稿の半ばを過ぎて、ここからが本題です。クレイについての原稿なので、ここからは極力クレイに絞っていきます。あと説明が多いと読んでいる人が立ち止まることも多いので、この原稿の一番いいところである「〆」に向かってスピードを落とさないように、なるべくダラダラ書かないようにしてきます。

=====================================それは、左腕を再生してしまうと、自分がバーニッシュである事実が動かしがたい事実になってしまうからだ。再生せずに義手のままでいることで、クレイは自分がバーニッシュではなく、子どもを助けた英雄としていつづけられた。クレイは自分がバーニッシュであることが、受け入れられなかったのである。=====================================

藤津:ここは段落を作っただけで、基本的に文章はそのままです。

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クレイは、その左腕で自分の考えに同意しないガロを殴る。あるいはその左手を肩において、人体実験の担当者であるエリスに無言の圧力をかける。自分が、バーニッシュであることを否定しなければならない場面で、左腕がクローズアップされているのだ。自分がバーニッシュなのに、それを認めたくないというクレイの矛盾した気持ち。それがこの左腕に象徴されている。この矛盾は、この義手から吹き出す炎で、リオとガロと戦う瞬間に最高潮に達する。=====================================

藤津:結論に至る証拠はもう十分具体的に書かれているので、クライマックスのガロ&リオとのバトルについては、ここでは意味合いだけ書いてカットしてしまいました。
大事なシーンで左腕だけがフィーチャーされているかというと若干アヤシイ感じもありますが、とりあえずそこはそのままにしました。こういうところは可能なら全編見直して、間違いがないというところまで事実を固く確認しておいたほうがよいです。そして例外があることを指摘されても文意には変わりがないということを説明できるように、自分の中でロジックを決めておくとよいでしょう。
ここにもう一段落とって、元原稿のようにクライマックスの矛盾の構図を書いてもいいとは思います。ただ今回はなるべく最短距離で結論に行くことを意識したので、省いています。

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ガロとリオの活躍により物語の最後で、バーニッシュはその能力を失い、バーニッシュでなくなる。それを知りクレイは「余計なことを」と一言つぶやく。この時、クレイは、彼のアイデンティティーである左腕を永遠に失ったのだ。そして左腕を本当に失ったことで、クレイは自分自身の矛盾からようやく解放されて、ただの人間に戻れたのである。=====================================

藤津:元の原稿のラストも印象的ですが、若干言い過ぎというか理屈っぽさが前面に出て、その直前のエモーショナルな雰囲気が消えてしまうのがもったいなかったので、「左腕を本当に失う」というフレーズだけもらって、それを組み込んでラストの1文をつくってみました。原稿をシェイプすることで、原稿中の大事な言葉がより際立つ――言葉に埋もれないようにする――ことを意識してリライトしました。

――では、藤津さんのリライト後の文章を改めて通しで読んでみましょう。

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『プロメア』の終盤、自治共和国プロメポリスの司政官クレイ・フォーサイトが、「バーニッシュ」であったという驚きの事実が発覚する。バーニッシュは、突如発火能力などの特殊能力を持つようになった人々のこと。彼らは欠損した自らの身体を再生することもできる。だがクレイのかつて失われた左腕は義手のままだ。どうしてなのか。
バーニッシュは30年前の出現以来、人間と対立を続けてきた。現在はその大半は人類と共存しているが、一部の過激なグループはマッドバーニッシュと呼ばれ、テロを繰り返している。主人公ガロ・ティモスは高機動救命消防隊バーニングレスキューの一員として、マッドバーニッシュの起こす火災を鎮火するために活動していた。
街を燃やすマッドバーニッシュと、それを止めるバーニングレスキュー。ところが、この構図が物語の中盤で崩される。マッドバーニッシュのリーダー、リオ・フォーティアは、囚われて人体実験の材料として扱われている仲間を救うためにテロを繰り返していたのだ。そしてその人体実験を主導している人物こそ司政官のクレイだった。真実を知ったガロは、リオとともにクレイの計画を止めようとする。リオとガロクレイに対峙したその時、その左腕の義手から炎が吹き出す。クレイがバーニッシュであることが明かされた瞬間だ。
クレイが左腕を失ったのは、彼がまだ学生だったころ。クレイが町を歩いていると、左腕から突如として炎が噴き出したのだ。この炎は、クレイの腕を焼き、ガロ少年の家を燃やしてしまう、この時、偶然にもクレイはガロ少年を助けた格好になり、左腕を失いながらも、子供を助けたという美談で市民から称賛されることになる。
彼はバーニッシュなのだから、この左腕を再生できたはずである。仮に義手をつけていることが市民に知られているとしても、彼の権力なら誰にも知られずに本物の腕に変えておくことだってできたはずだ。それでも彼は左腕を再生しなかった。
それは、左腕を再生してしまうと、自分がバーニッシュである事実が動かしがたい事実になってしまうからだ。再生せずに義手のままでいることで、クレイは自分がバーニッシュではなく、子どもを助けた英雄としていつづけられた。クレイは自分がバーニッシュであることが、受け入れられなかったのである。
クレイは、その左腕で自分の考えに同意しないガロを殴る。あるいはその左手を肩において、人体実験の担当者であるエリスに無言の圧力をかける。自分が、バーニッシュであることを否定しなければならない場面で、左腕がクローズアップされているのだ。自分がバーニッシュなのに、それを認めたくないというクレイの矛盾した気持ち。それがこの左腕に象徴されている。この矛盾は、この義手から吹き出す炎で、リオとガロと戦う瞬間に最高潮に達する。
ガロとリオの活躍により物語の最後で、バーニッシュはその能力を失い、バーニッシュでなくなる。それを知りクレイは「余計なことを」と一言つぶやく。この時、クレイは、彼のアイデンティティーである左腕を永遠に失ったのだ。そして左腕を本当に失ったことで、クレイは自分自身の矛盾からようやく解放されて、ただの人間に戻れたのである。
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――クレイの左腕の謎の提示とその解明という形でテーマを絞ったことで、スピード感のあるレビューになった印象です。

藤津:元の原稿が約2000文字だったのに対し、リテイク後は1300文字程度にしています。

――そんなに短くなってるんですね! 1/3も減っているようには見えませんでした。これが純度を上げるということなのですね。

■作品添削その2:『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』レビュー記事
――では次の原稿を見てみましょう。大野和寿さんの『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』のレビューです。

※『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』:1988年公開の富野由悠季監督による劇場用作品。79年放送の『機動戦士ガンダム』から連なる主人公アムロと宿敵シャアの戦いの決着が描かれた当時のシリーズ集大成的作品。2人の対決が地球全体を破滅と救済に誘う衝撃的な結末は議論を呼んだ。

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映画【機動戦士ガンダム逆襲のシャア(以下、逆襲のシャア)】は、他の【ガンダム】の名を冠する作品群同様、一作目の【機動戦士ガンダム】とは、何の関係もない作品である。
無論アムロやシャアといった【機動戦士ガンダム】に出ていたキャラクターが【逆襲のシャア】には確かに登場する。
しかし彼らは、名前以外、一作目の【機動戦士ガンダム】に出ていた同名の人物たちとは、中身は全然違うキャラクターなのだ。
だから、一作目の【機動戦士ガンダム】の続きだと思って、【逆襲のシャア】を見ると、強烈な違和感を覚える。
【逆襲のシャア】には、【機動戦士ガンダム】が持っていた、例えばただの敵かと思っていたジオンにもそれなりの言い分や正義が在るという、豊穣なフィクションの劇空間が、【逆襲のシャア】には、無い。
それ故【逆襲のシャア】をひとめ見て、これは面白い映画だ、楽しかったという有り体な感動は、得られない。
だが他方【逆襲のシャア】には、いつまでも同じ過ちを繰り返し続ける悲しい人間模様、腐りきった官僚主義、分かりあいたいのに分かりあえない様々な人々といった、現実世界に生きる我々と、同じ種類の苦悩を抱いた人間たちが、克明に描かれている。
そして劇中、その登場人物たちの苦悩は、実社会に生きる我々と同様、解決されることはなく、苦い事態として描かれる。
【逆襲のシャア】を見て観客が思うこと。それは、
「これは現実だ。現実を劇映画で見せつけられた」
ということだ。
【逆襲のシャア】は、だから面白いのか、だから面白くないのか。
答えは未だに出てない。
だが公開後32年以上も、あれこれ考えることを思い付ける映画は結果としてやはり面白いのだ、と言うしかないのか。ないのかもしれない。
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――短くてパンチの利いた原稿ですね。藤津さん、いかがでしたか?

藤津:面白いですね。「『逆襲のシャア』にはあれが無い」「これが無い」「だがこれがある」という、無い、無い、あるという構成がキマっています。「ガンダムを見に行ったら現実を見せつけられた」というのは『逆襲のシャア』という作品の魅力の一つなので、その切り口もいいですね。

手直しするとすれば、「『これは現実だ。現実を劇映画で見せつけられた』ということだ。」をオチに据えることを見越して、冒頭はそれに呼応するものにする必要があります。

また「同名の人物たちとは、中身は全然違うキャラクターなのだ。」の部分は、敢えて強めに書いているということは分かるのですが、その趣旨が伝わるよう多少のフォローはしておいた方がいいでしょう。

――設定上は紛れもなく過去作と同一人物ですもんね。それでは藤津さんの添削の過程を見てみましょう。

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『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』はおもしろいのか、おもしろくないのか。
『逆襲のシャア』は『機動戦士ガンダム』から数えてシリーズ第4作。第1作に登場したアムロとシャアが十数年の時を経て再び中心人物となって登場する。しかし『逆襲のシャア』は、そのほかの『ガンダム』を冠した作品群と同様、最初の『機動戦士ガンダム』とは何の関係もない作品と考えたほうがいい。
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藤津:1アイデアで押している原稿なので、そのアイデアが効果的に機能するように頭に掴みをつくりました。その後の作品説明は元原稿ではかなりとばして書いている感じですが、ここは若干丁寧に説明を入れました。

なお、作品表記のカギカッコは一般的な出版のルールに基づいたものに変えてあります。

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『逆襲のシャア』に登場するアムロとシャアは、第1作『ガンダム』に出ていた同名の人物たちとは、その内面が全然違うのだ。アムロは、内向的な性格でありながら、それでも一歩を踏み出そうとする普通の人物ではなく、類まれな戦闘力を持ち、逡巡なく引き金を引けるエースパイロットになっている。シャアは、野心を胸に秘めたクールな悪役ではなく、アムロに勝てないコンプレックスを滲ませる中年になっている。いくら作中で年月が経ったからとはいえ、変わり過ぎではないか。だから第1作『ガンダム』の続編だと思って見ると、強烈な違和感がある。
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藤津:このブロックで前の段落で投げかけた「関係ない作品」の理由を説明し、どうして同一人物ではないのか、という点について具体的に書き足してみました。「作品間で時間が経ってるんだから性格も変わってて当然だろう」という反論を見越した上で、書き手の立ち位置も補強してあります。

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結果として『逆襲のシャア』には、ただの敵かと思われたジオンにもそれなりの言い分や正義が在るという、フィクションならではの豊穣な劇空間がない。それ故、『逆襲のシャア』を見ても、「これはおもしろい映画だ」「楽しかった」というストレートな感動は、得られない。
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藤津:前のブロックを受けての結論で、実質的に「おもしろくない」の理由の説明です。ここはほぼ元原稿のママです。

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その代わり『逆襲のシャア』は、いつまでも同じ過ちを繰り返し続ける悲しい人間模様、腐りきった官僚主義、分かりあいたいのに分かりあえない様々な人々、などを克明に描き出す。それは現実世界に生きる我々と同じ種類の苦悩で、だからこそ登場人物の苦悩は、現実世界に生きる我々と同様、解決されることはない。
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藤津:ここもほぼ元原稿のママです。ただ「だが他方」より「その代わり」のほうが、「ない」ものの代わりに「ある」ものもある、という論旨を強調するので、接続する部分を書き換えています。

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『逆襲のシャア』を見て観客は思う。
「これは現実だ。現実を劇映画で見せつけられているのだ」
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藤津:ここが大事なところなので、台詞を強調するため、文章の中に入れず、独立させました。

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『逆襲のシャア』という作品は、だからおもしろいのか、だからおもしろくないのか。
公開から32年が経過した今も、答えは未だに出ていない。だがそれほどに長い時間が経っても、なお、あれこれと『逆襲のシャア』について考えてしまうということは、結果としてやはり「おもしろい」といわざるを得ないのか。しかし、そうやって素直に承服するのも難しい自分もいる。
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藤津:冒頭の投げかけをここで回収します。元原稿のオチなので、そこはそのままです。ここまで悩んでいるのだから、そのまま「おもしろい」で納得しかけるのもつまらないと思い、最後に一文付け加えました。ここで書き手=自分が出てきてしまいますが、読者が書き手の理屈に納得できるぐらいにはちゃんと説明がされているので、これぐらいちょっとだけ「自分」が出ても違和感は少ないかなと判断しました。あるいは「そうやって素直に承服してはいけないような気もしている。」と自分を省いて書いてもいいかもしれません。

――続いて、修正原稿を通しで読んでみましょう。

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『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』はおもしろいのか、おもしろくないのか。
『逆襲のシャア』は『機動戦士ガンダム』から数えてシリーズ第4作。第1作に登場したアムロとシャアが十数年の時を経て再び中心人物となって登場する。しかし『逆襲のシャア』は、そのほかの『ガンダム』を冠した作品群と同様、最初の『機動戦士ガンダム』とは何の関係もない作品と考えたほうがいい。
『逆襲のシャア』に登場するアムロとシャアは、第1作『ガンダム』に出ていた同名の人物たちとは、その内面が全然違うのだ。アムロは、内向的な性格でありながら、それでも一歩を踏み出そうとする普通の人物ではなく、類まれな戦闘力を持ち、逡巡なく引き金を引けるエースパイロットになっている。シャアは、野心を胸に秘めたクールな悪役ではなく、アムロに勝てないコンプレックスを滲ませる中年になっている。いくら作中で年月が経ったからとはいえ、変わり過ぎではないか。だから第1作『ガンダム』の続編だと思ってみると、強烈な違和感がある。
結果として『逆襲のシャア』には、ただの敵かと思われたジオンにも、それなりの言い分や正義が在るという、フィクションならではの豊穣な劇空間がない。それ故、『逆襲のシャア』を見ても、「これはおもしろい映画だ」「楽しかった」というストレートな感動は、得られない。
その代わり『逆襲のシャア』は、いつまでも同じ過ちを繰り返し続ける悲しい人間模様、腐りきった官僚主義、分かりあいたいのに分かりあえない様々な人々、などを克明に描き出す。それは現実世界に生きる我々と同じ種類の苦悩で、だからこそ登場人物の苦悩は、現実世界に生きる我々と同様、解決されることはない。
『逆襲のシャア』を見て観客は思う。
「これは現実だ。現実を劇映画で見せつけられているのだ」
『逆襲のシャア』という作品は、だからおもしろいのか、だからおもしろくないのか。
公開から32年が経過した今も、答えは未だに出ていない。だがそれほどに長い時間が経っても、なお、あれこれと『逆襲のシャア』について考えてしまうということは、結果としてやはり「おもしろい」といわざるを得ないのか。しかし、そうやって素直に承服するのも難しい自分もいる。
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――前作との違いや『逆シャア』ならではの魅力の説明がよりクリアになったように感じます。

藤津:「この映画は現実だ!」という大野さんが提示した作品の魅力を引き立てるために、冒頭で「『逆襲のシャア』は面白いのか、面白くないのか」という疑問を投げかける形にしました。

問いはレビューのテーマを伝えるためのものですので、それが上手くいっていれば問いの答えはどちらでも構わないと思います。

――謎が謎のまま終わることを強調した修正後の結論部分は、まさに『逆シャア』を彷彿とさせますね。

■作品添削その3:『君の名は。』レビュー記事
――最後の作品はゆーれいさんによる『君の名は。』レビュー「”現実”・カネから、「恋とエロ」とを守り抜け!」です。まずは原文をご覧ください。

※『君の名は。』:新海誠監督による2016年劇場公開オリジナルアニメ作品。都内に住む男子高校生・瀧と都会に憧れる女子高生・三葉の身体が夢を介して入れ替わるところから始まる物語。国内歴代興行収入第4位(邦画としては第2位)を記録する大ヒット作となった。

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■『君の名は。』は確かに「エロ」い。 ー 『天気の子』にも「性の香り」

『君の名は。』には批判されがちな、性的な描写が散見される。主人公の瀧は、もう「片割れの」主人公である三葉と入れ替わった直後、己の胸を揉みしだく。宮水神社での三葉の口噛み酒は、赤く艶めく唇の作画、白く濁って枡(ます)へと注ぐ液の描写によって、神聖さ・なまめかしさが演出される。
ところで、『君の名は。』に続く新海作品、『天気の子』にも「性の香り」が要所要所に匂いたつ。主人公の帆高は東京に来た当初、インターネットの情報を元に、性風俗店での従業員の面接へと向かう。ヒロインの陽菜もまた、粗野なキャッチに誘われて、ホテル街の店で働くことに一度は同意する。穂高がライター・須賀の事務所で働き始める際にも、須賀はそれを「インターン」と、彼の姪、夏美は「体験入店」と表現する。そして何より、帆高は陽菜の消失を、ラブ・ホテルにて経験することとなる。
『君の名は。』と『天気の子』は、どこかが「エロ」い。では、このエロティックな・性的な表現が、ボーイ・ミーツ・ガールとしての「恋」と、そして両作品の根幹とどう「結び」つくのであろうか。本文章は、この問いに答えてみようとするものである。なお予め述べておくと、本文章では『君の名は。』と『天気の子』の共通項のみに着目する。

■「東京」「エロ」の両義性 ー 「エロ」が「カネ」に犯される

『君の名は。』にて、東京は三葉の憧れとして描かれる。三葉は「東京って毎日お祭りみたい」と言い、奥寺先輩とのデートを心待ちにする。『天気の子』でも、東京は帆高の希望として描かれると同時に、「綺麗すぎる東京」とでも言わんばかりに、繊細で美麗な雨の描写で覆われる。その一方で同時に、東京は「現実」という重荷としても描かれる。『君の名は。』のラストにおいて東京は、帆高にとっては「うまく行かない就活」という現実が重くのしかかる場であり、三葉にとっては何かを待ち望んでいるような、灰色で満ち足りない日常の場である。より鮮明なのは『天気の子』で、東京の風俗街にはならず者のキャッチがはびこり、帆高のアルバイトを拒絶するような、残酷で冷たい、市場経済に基づいた「大人の世界」として描かれる。
ところで、新海両作品における東京には「憧れ」と「現実の苦しさ」という両義性が込められていたのと同様に、エロティックな表現についても、新海両作品では「憧れ」と「カネに汚された現実」という二義性が込められている。『天気の子』においては言わずもがなである。東京に出てきた帆高が夏美の胸元から目が離せないシーンやラブ・ホテルでの陽菜の艶かしさは「憧れ」としてのエロティックなものを示す一方で、性風俗のキャッチは「売る」ものとしての性、経済とカネの世界を回すものとしての性として描かれる。エロティックなものは一面では憧れ、二人と超越的世界とを結ぶロマンスである。真実を知った瀧が再び過去へ、三葉の身体へと戻ったときに、泣きながら揉んで確認したのは自分の胸であった。「カタワレドキ」、三葉と瀧がついに生身で向かい合う「形割れ刻」であると同時に、再び記憶を失い離れ離れになるような「片割れ刻」であるような「誰そ彼時(たそがれどき)」のシーンにおいて、二人を向かい合わせたのは他でもない、エロティックな口噛み酒であった。カタワレドキという重大な時に、三葉は瀧が自らの胸を揉みしだいたことを問い詰める。もし「エロ」が重大な役割を持たないならば、この表現は冗長なものではなかろうか。なお、同作品が古典と伝統に依拠していることを考えれば、身体的エロスが「約束」と結びつくような、「契り」という言葉がこのシーンをうまく形容していると言いうるかもしれない。
しかし同時に、『君の名は。』においても、「現実に犯されたエロ」は散見される。口噛み酒作成のシーンにおいては、四葉が口噛み酒の「商業化」を提案し、三葉が「酒税法違反」と跳ね除けたように、神聖でエロティックであるはずの口噛み酒が、カネ稼ぎの道具とされてしまい、それの当否は超越的な視座からではなく、現実社会の法によって裁かれることを仄めかす。付け加えるなら、滝の憧れの先輩、奥寺のスカートは悪質なクレーマーによって切り裂かれるシーンもまた、奥寺のスカートが一面では瀧の憧れである一方で、クレーマーにとっては性的消費の対象となり暴行を受ける。
いずれにせよ、両作品において、「エロ」とは憧れ・神聖な世界のものであると同時に、カネと大人の暴力に容易に汚されてしまうものとして描かれる。

■「エロと恋」とを「カネと大人」からひっそり守る

陽菜は性的消費の対象として己を差し出すことは避けたが、「天気の巫女」として己を世界に犠牲として差し出そうとする。陽菜と同時に、小説版『天気の子』によると元々小説が好きであったはずの帆高も、言わば売文に手を染める。帆高は売れる記事を書こうとするが、このときは「子供の世界」へと揺れていた夏美は、「圭ちゃん(須賀)みたいでつまらない」と言い放つ。「自己実現」と評されうるような「晴れ女の仕事」と売文業、「自分にしかできないこと」の裏に潜む犠牲と欺瞞とを、『天気の子』は暴き出す。そしてその欺瞞に気づいた、「子供の世界」こそが真実である、と気づいたがカネ、大人の世界に適合せざるを得ない瀧は、就活に苦労する。それでもなお、子供の世界を持ち続けることで、どこかで何かが「むすぶ」ような、そんな未来を、『君の名は。』は示す。
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――新海誠監督作品をエロと金で斬るという、アグレッシブな印象の原稿ですね。

藤津:作品の比較論で伝えようとしているロジックは面白いですね。ただ、割と複雑なことを言おうとしているので、ごちゃごちゃした印象だけが残らないよう全体の整理は必要です。

今の原稿のままだと、ゆーれいさんが『君の名は。』について言っていることと『天気の子』について言っていること、どちらがどちらだったかが読後に分からなくなってしまうのではないでしょうか。

――たしかに、『君の名は。』の話なのか『天気の子』の話なのか、はたまた新海監督の作家性の話なのか、混乱してしまいそうです。

藤津:アイデアはいいので、ここからもう2、3回練り直すことで発見のある原稿になると思います。ここが粘りどころ、スタートですね。

――ここまで書いてやっとスタートなんですね。ちなみに「エロ」をメインテーマに据えること自体はアリですか?

藤津:エロに憧れと現実の厳しさという両義性があるというのは本稿の重要なポイントですし、雑誌原稿としては普通にアリと思います。

――ありがとうございます。それでは藤津さんの添削を見てみましょう。

藤津:本文に入る前に全体の構成についてですが、原文では2400文字ほどの原稿に小見出し的なものが3つ入っています。それぞれキャッチーなフレーズで大変面白いのですが、「見出し」による「まとまった感じ」に頼らないほうが文章の構成により意識が向かうと思うので、ここでは文章と段落構成だけでその3ブロックの変化を打ち出すという方向でリライトしてみます。

なお、段落毎に1行アキを入れると読みやすくなって原稿がすっきりした印象になるのですが、これについても小見出しの件と同様です。原稿が上達したい人は小見出しも1行アキも入れないで書く練習をした方がよいと思います。

――掲載用のレイアウト修正は通常編集の方が別途やってくれますね。執筆の段階ではぱっと見の見やすさで誤魔化さない方がいい、ということでしょうか?

藤津:そうです。文章同士がきちんと論理的に結びついて流れができていれば、文字が詰まっていても読みやすい原稿になるはずです。ですので書く練習をする段階では、見た目が整然としているかよりも「この作品はこうなんだ」「だからこのシーンはこうなってるんだ」「だからこのシーンにもこういった意味が読み取れるんだ」といった論理的な結びつきが作れているかどうかに気を払うべきです。

――これはゆーれいさんの原稿に限らず文章の練習をする上で気を付けたいポイントですね。

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『君の名は。』と『天気の子』はエロい。直接ナニかが映るわけではないが、日常の風景の中からチラチラと性の香りが漂ってくる。
 例えば『君の名は。』の主人公の瀧は、もうひとりの主人公、三葉と心が入れ替わった直後、驚きながらもまず己の胸を揉みしだく。宮水神社で三葉の口噛み酒は、赤く艶めく唇、白く濁って枡へと注ぐ液の描写によって、神聖さと同時になまめかしさが演出される。
『天気の子』も、東京に出てきた主人公の帆高は、インターネットの情報をもとに性風俗店での従業員の面接へと向かう。ヒロインの陽菜もまた、粗野なキャッチに誘われて、ホテル街の店で働くことに一度は同意する。穂高がライター・須賀の事務所で働き始める際に、須賀はそれを「インターン」というが、彼の姪、夏美は「体験入店」と表現する。そして何より、帆高は陽菜の消失を体験するのはラブホテルである。
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藤津:基本的には元の原稿に書いてあったことを整理しただけです。整理の第一段階として、まずエロいといってもどんなタイプのエロさかを加えています。元原稿では『君の名は。』はエロい、『天気の子』にも性の香り、と微妙に書き分けていますが、そこを共通点でくくりたいならその間の差異を表現すると読者が混乱するので、大きくまとめてしまいました。

「批判されがち」という本題に無関係なフレーズはカットしました。また『天気の子』ぐらいの描写で性の香りが「匂い立つ」と書くとさすがに「鼻が利きすぎでは?」という感じがするので(笑)、そこの表現も抑えました。「インターン」という単語はエロと結び付けない人も多いと思うのでエロワード扱いからはずしてみました。このあたりは人によって塩梅が変わるところだとは思います。

このブロックの最後の、エロティックな表現が~どう結びつくか、という一連のくだりは、原稿の短さに比して大上段すぎるのでカットしました。

次のブロックは元原稿では「東京」と「エロ」を並置する展開ですが、順番を変えてエロに込められた両義性について先に書き、それは「東京」という舞台とも重なるよね、という展開にしました。

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『君の名は。』ではこのエロさは、瀧と三葉の身体を介したボーイ・ミーツ・ガールを描く上で大きな役割を果たしている。
三葉の身に何か起きたか、その真実を知った瀧が、再び三葉の身体へと戻ったとき、泣きながら揉んで確認したのは三葉=自分の胸であった。また夕暮れの中、瀧と三葉が生身で向き合うことを可能にしたのは、エロティックな描写で印象付けられた口噛み酒であった。
そして三葉は、そんな大事な瞬間に瀧が自らの胸を揉みしだいたことを問い詰める。このくだりはコメディのように見えて、身体的エロスが「約束」と結びついた「契り」という言葉を思い出させる。本来なら「かはたれとき」と呼ばれる夕暮れの瞬間を、『君の名は。』では、方言という説明で、あえて「かたはれどき=片割れ時」と読んできた意味もここで明確になる。
もちろん『君の名は。』に出てくるエロティックなシーンは、このように魅力的なものばかりではない。例えば、三葉の妹、四葉は口噛み酒の商品化を提案する。四葉本人は幼くて無自覚だが、三葉はそこに「(自分の)性の商品化」を感じ取り、酒税法を理由にはねのける。瀧のバイトの先輩である奥寺は、悪質なクレーマーにスカートを切り裂かれる。ここではエロティックなものが、金と暴力によって消費の対象となる残酷な現実が顔をのぞかせる。
エロティックなものをめぐる2つの側面を描くこと。それは『天気の子』にも共通している。帆高が夏美の胸元をつい見てしまう、いかにも思春期男子らしいシーンや、ラブホテルでの陽菜の艶かしさは「憧れ」としてのエロティックなものを示す一方で、性風俗のキャッチの存在は「売るものとしての性」という現実の残酷な一側面を浮かびあがらせる。
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藤津:第1ブロックではエロティックなシーンがあることを説明。第2ブロックではエロティックなシーンの役割と2つの側面が描かれていることを説明。第3ブロックではそれが「東京」の描かれ方と重なること。というふうに整理をしました。ここまで整理をしてあれば読者も混乱しづらいと思います。

「かたわれどき」をめぐるくだりは、生身で向き合うのところで「形割れ時」と漢字をあてているのか分かりづらいなど説明不足な感じなので、端的に短くしました。加えて「かはたれどき」を作中ではわざと「かたわれどき」と読み替えているところを拾ったほうが作中の言葉選びが意図的なことがわかるのでそれについて書き加えました。

ここで「憧れ」と「残酷な現実」とフレーズを固定し、以降はこの言葉を使うことで読者が論旨を追いやすくしています。抽象的な概念は文中であまり言い換えず、なるべく同じフレーズを使い続けた方が読者は混乱しません。

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この2つの作品には、「憧れ/残酷な現実」という側面をから描かれる存在が、エロティックなもの以外にも実はある。それは「東京」だ。
『君の名は。』で地方に住む三葉は「東京って毎日お祭りみたい」と言い、瀧の体で奥寺先輩とのデートすることを心待ちにする。『天気の子』でも、東京は帆高の希望として描かれており、「綺麗すぎる東京」を強調するかのように、繊細で美麗な雨の描写が積み重ねられる。
その一方で東京は「現実」という重荷でもある。『君の名は。』のラストで、東京は、帆高にとっては「うまく行かない就活」という現実が重くのしかかる場であり、三葉にとっては灰色で満ち足りない日常の場である。より鮮明なのは『天気の子』で、東京の風俗街にはならず者のキャッチがはびこり、帆高のアルバイトを拒絶するような、残酷で冷たい、市場経済に基づいた「大人の世界」としての顔がしっかり描かれている。
東京が体現する「憧れ」と「残酷な現実」が大人の世界とするなら、エロティックなものから見える「憧れ」と「残酷な現実」は子供の世界とその限界だ。この2つは、「残酷な現実」の部分を接点にして、コインの裏表のように貼り付いている。
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藤津:こうやって整理をしてみると、本題に東京があまり絡んでないことがはっきりしてきます。思いつきで書いちゃったという印象ですね。

――たしかに、原文では2つ目のブロック内限定のテーマで、冒頭にも結論にも絡まない要素ですね。

藤津:この東京に関わるブロックを省いてまとめにいってもいいぐらいですが、元の原稿にあったのでなんとか組み込むことにしました。そのために付け加えたのが最後の一段落です。若干力技ですが。

書こうと思っていることが図で書けるぐらい整理されたものになっているかどうかをしっかり考えてから書き出すと、こういうことは避けられるでしょう。

――伝えたいことを「図が書けるくらい整理する」というのは分かりやすい指標ですね。最後のブロックについてはいかがでしょう?

藤津:最後のブロックは、言いたいことは分かるのですが、いかにも未整理というか長距離走をして最後倒れ込むようにゴールに入った感じです。「ひっそり守る」と小見出しにあるのに文中に「ひっそり守る」ということについて何も書かれていませんから、ゴールテープを切ってない感もあります。

かなり多くの要素が詰め込まれているので、少ない文字数で書き切るには難しい夏美の件などはカットし、結論だけを端的に書くことにします。

また、原文のままだとフリに使った「エロティックなもの」が忘れられている感じがあり、「この結論なら別のテーマでも同じことがいえたのでは?」という感じがしてしまうので、最後に改めて触れています。結構苦し紛れな一文ですが、無いよりはあったほうがまとまると思い、入れました。

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そして『君の名は。』も『天気の子』は、コインがくるくると回転するように、大人の世界と子供の世界を行ったり来たりした後で、子供の世界に未来の希望を託すように映画を締めくくる。
『天気の子』の陽菜は、“天気の巫女”である自分を差し出すことで、異常気象に見舞われる世界を救おうとする。それは“大人の判断”だ。だが穂高は陽菜をそこから救い出す。自己犠牲などという美しい行為は、世界が子供に強いる欺瞞だといわんばかりの力強さで。
『君の名は。』の瀧は、就職活動という大人の世界に入る儀式のさなかでも、「なにか大事なことを忘れたような感覚」を持ち続けている。それは彼の中に子供の世界が息づいているからだ。そして瀧はついに、その「大事なこと」と巡り合う。
「子どもの世界」の勝利で締めくくられる両作。そこで描かれる「(キス未満の)エロティックなものへの憧れ」は、「大人の世界」に抵抗する「子供の世界」の象徴なのだ。
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――それでは続いて修正後の原稿をまとめて読んでみましょう。

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『君の名は。』と『天気の子』はエロい。直接ナニかが映るわけではないが、日常の風景の中からチラチラと性の香りが漂ってくる。
例えば『君の名は。』の主人公の瀧は、もうひとりの主人公、三葉と心が入れ替わった直後、驚きながらもまず己の胸を揉みしだく。宮水神社で三葉の口噛み酒は、赤く艶めく唇、白く濁って枡へと注ぐ液の描写によって、神聖さと同時になまめかしさが演出される。
『天気の子』も、東京に出てきた主人公の帆高は、インターネットの情報をもとに性風俗店での従業員の面接へと向かう。ヒロインの陽菜もまた、粗野なキャッチに誘われて、ホテル街の店で働くことに一度は同意する。穂高がライター・須賀の事務所で働き始める際に、須賀はそれを「インターン」というが、彼の姪、夏美は「体験入店」と表現する。そして何より、帆高は陽菜の消失を体験するのはラブホテルである。

『君の名は。』ではこのエロさは、瀧と三葉の身体を介したボーイ・ミーツ・ガールを描く上で大きな役割を果たしている。
三葉の身に何か起きたか、その真実を知った瀧が、再び三葉の身体へと戻ったとき、泣きながら揉んで確認したのは三葉=自分の胸であった。また夕暮れの中、瀧と三葉が生身で向き合うことを可能にしたのは、エロティックな描写で印象付けられた口噛み酒であった。
そして三葉は、そんな大事な瞬間に瀧が自らの胸を揉みしだいたことを問い詰める。このくだりはコメディのように見えて、身体的エロスが「約束」と結びついた「契り」という言葉を思い出させる。本来なら「かはたれとき」と呼ばれる夕暮れの瞬間を、『君の名は。』では、方言という説明で、あえて「かたはれどき=片割れ時」と読んできた意味もここで明確になる。
もちろん『君の名は。』に出てくるエロティックなシーンは、このように魅力的なものばかりではない。例えば、三葉の妹、四葉は口噛み酒の商品化を提案する。四葉本人は幼くて無自覚だが、三葉はそこに「(自分の)性の商品化」を感じ取り、酒税法を理由にはねのける。瀧のバイトの先輩である奥寺は、悪質なクレーマーにスカートを切り裂かれる。ここではエロティックなものが、金と暴力によって消費の対象となる残酷な現実が顔をのぞかせる。
エロティックなものをめぐる2つの側面を描くこと。それは『天気の子』にも共通している。帆高が夏美の胸元をつい見てしまう、いかにも思春期男子らしいシーンや、ラブホテルでの陽菜の艶かしさは「憧れ」としてのエロティックなものを示す一方で、性風俗のキャッチの存在は「売るものとしての性」という現実の残酷な一側面を浮かびあがらせる。

この2つの作品には、「憧れ/残酷な現実」という側面をから描かれる存在が、エロティックなもの以外にも実はある。それは「東京」だ。
『君の名は。』で地方に住む三葉は「東京って毎日お祭りみたい」と言い、瀧の体で奥寺先輩とのデートすることを心待ちにする。『天気の子』でも、東京は帆高の希望として描かれており、「綺麗すぎる東京」を強調するかのように、繊細で美麗な雨の描写が積み重ねられる。
その一方で東京は「現実」という重荷でもある。『君の名は。』のラストで、東京は、帆高にとっては「うまく行かない就活」という現実が重くのしかかる場であり、三葉にとっては灰色で満ち足りない日常の場である。より鮮明なのは『天気の子』で、東京の風俗街にはならず者のキャッチがはびこり、帆高のアルバイトを拒絶するような、残酷で冷たい、市場経済に基づいた「大人の世界」としての顔がしっかり描かれている。
東京が体現する「憧れ」と「残酷な現実」が大人の世界とするなら、エロティックなものから見える「憧れ」と「残酷な現実」は子供の世界とその限界だ。この2つは、「残酷な現実」の部分を接点にして、コインの裏表のように貼り付いている。

そして『君の名は。』も『天気の子』は、コインがくるくると回転するように、大人の世界と子供の世界を行ったり来たりした後で、子供の世界に未来の希望を託すように映画を締めくくる。
『天気の子』の陽菜は、“天気の巫女”である自分を差し出すことで、異常気象に見舞われる世界を救おうとする。それは“大人の判断”だ。だが穂高は陽菜をそこから救い出す。自己犠牲などという美しい行為は、世界が子供に強いる欺瞞だといわんばかりの力強さで。
『君の名は。』の瀧は、就職活動という大人の世界に入る儀式のさなかでも、「なにか大事なことを忘れたような感覚」を持ち続けている。それは彼の中に子供の世界が息づいているからだ。そして瀧はついに、その「大事なこと」と巡り合う。
「子どもの世界」の勝利で締めくくられる両作。そこで描かれる「(キス未満の)エロティックなものへの憧れ」は、「大人の世界」に抵抗する「子供の世界」の象徴なのだ。
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藤津:こうしてみると『君の名は。』の入れ替わり(胸揉み)に相当する、身体を媒介したコミュニケーションが『天気の子』の中に具体的に見つけられていないのが、論理の大きな穴になっていますね。

――たしかに、それが指摘できていれば比較論がもっと際立っていたように思います。

藤津:今回そこは見ないふりをして原稿を直しましたが、ベースのロジックがゆるい上にさらに「東京」という要素をそこに重ねたので、全体として何を言うかがどんどん不明瞭になってしまったという感じです。最後が子供の世界/大人の世界の話になるなら、最初からその線でまとめてエロティックなものに触れなくてもよかったのでは? という感もあります。

――たくさんの書きたいことが列挙できているので、ここからどう整理し絞っていくかが重要なんですね。そういう意味でここからがスタートだと仰ったのですね。

藤津:個別のアイデアは非常に面白いのに各個のパーツの精度が低いままなので、組み上がってもガタガタしているという感じです。もったいない、というか、惜しいというか。

まずパーツの精度を上げること。具体的には、『天気の子』の中に身体を介したコミュニケーションがあるかどうかを吟味することと、「東京」と「エロティックなこと」の間にどういう関係があるかを図で書けるぐらい考えること、この2点です。

そしてパーツを組み上げてみて書きたいことが明確になり、最初のアイデアが不要だと思ったらそれを捨てて書き直す、というぐらいの勇気が必要だと思います。

■アニメレビューに必要な「勇気」「度胸」を得るためには?
――書きたいことの取捨選択をしっかりして、自分の書きたいテーマが「この作品は〇〇だ!」という風に絞り込んではっきり明示できた上で、他にも意識すべきことはあるでしょうか?

藤津:掲げたテーマやロジックを強固な印象にするためには、テーマだけでなく一文一文も言い切る形で書いた方がいいです。今回の応募原稿の中にも文末を「私はこう思いました」と主観に寄せたり「こうではないだろうか?」と疑問形にしたりしたものが散見されましたが、それを「こうだ」と客観的な事実として書き直すことで強い印象を与えることができます。

――でも「この作品は〇〇だ!」と言い切るのにも勇気が要りますよね。その作品のファンに「違うよ!」「何も分かってねえな!」って言われたらどうしよう、と思ってしまいそうです。

藤津:僕は、作品について論じることには、それがたとえ好意的なものであったとしても一種暴力的な側面があると思っています。ですから、批判を受けるかもしれない、「バカ!」と言われるかもしれないということについては、覚悟は必要ですね。

――そこは覚悟や自信とかの問題になってくるんですね。

藤津:ですね。思い切り、勇気、度胸です。

――アニメレビューに大事なのは、度胸! では、その度胸や自信はどうやってつければいいのでしょう?

藤津:濁した書き方をしてしまった時に「どうして自分はこういう書き方をしてしまったんだろう? 何故自信をもって言い切れないんだろう?」と考えてみることです。

たとえば、「私はこの作品はこういう点で日本初の作品だと思います」という文章を書いたとして、そこで「この点で日本初の作品だ」と言い切れないのは、書き手の心の中にまだ確証が無いからです。確証を得るためにはどうするべきだと思いますか?

――調べる……でしょうか。

藤津:そうです。作品や資料を何度も見返し、本当に日本初なのかをしっかり調べればいいんです。そうして調べていく中で本当に日本初だと確認できれば自信をもって「この作品はこの点で日本初だ」と書けますし、批判されても「これが証拠だ」と出せばいいやと思えますよね。

作品を見れば見るほど、調べれば調べるほどはっきり言い切った読みやすい文章にすることができます。読みやすくていいレビューを書くことと、作品についてしっかり調べて自分の意見に自信を持つことは両輪なんです。

――もし自分では調べ切ったつもりだったのに、もっと詳しい人から「違うよ!」と批判されたら?

藤津:それはもう自分の力不足、調べ不足ですから「バカ!」と言われても受け入れるしかないですね(笑)。でも自分が調べた先のことを教えてもらえてるのですから、その指摘には納得感があるはずです。それに、次はもっと正確で自信が持てる文章が書けるようになっていますよ。

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レビュー原稿をお送りいただいた読者様へ。あらためましてご協力ありがとうございました! すでに藤津さんのフィードバックを個別に送らせていただきましたが、今後のアニメレビューのご参考になりますと幸いです!(アニメ!アニメ!編集部)

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